「藪中三十二の娘」で検索している方は、意外と多いんです。
元外務事務次官として日本外交を支え続けた藪中三十二さんですが、家族情報は一切公開されておらず、娘の有無すら確認できません。
ただ、調べれば調べるほど面白い人物で、北朝鮮との六者会合を実質的に”生み出した”エピソードや、「三十二(みとじ)」という名前の謎、若者育成への熱い思いなど、知られざる素顔が見えてきます。
・藪中三十二の娘・家族情報の実態と非公開の理由
・名前「三十二(みとじ)」の由来についての各種説
・外務事務次官として40年歩んだ外交キャリアと現在の活動
藪中三十二の娘はいるのか?家族・プロフィールを調査
藪中三十二さんの娘についての情報を探している方は多いようです。ここでは基本プロフィールから家族情報、ネットで話題の名前の由来まで、わかる範囲でまとめました。
藪中三十二の基本プロフィール
藪中三十二さんといえば、日本の外交官として40年以上のキャリアを持ち、外務省のトップ・外務事務次官にまで上り詰めた人物です。
まずは基本情報を整理してみましょう。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 本名 | 藪中 三十二(やぶなか みとじ) |
| 生年月日 | 1948年1月23日 |
| 出身地 | 大阪府 |
| 最終学歴 | コーネル大学卒業(大阪大学法学部中退) |
| 職歴 | 外務省入省→外務事務次官→立命館大学客員教授・大阪大学特任教授 |
| 現職 | 外務省顧問、大阪大学特任教授、薮中塾塾長 |
| 称号 | 瑞宝重光章(2022年) |
大阪府立住吉高等学校を卒業後、大阪大学法学部に進学。大学在学中は英会話サークル(ESS)の部長を務めていた藪中さんは、仲間に誘われてふと受けた外務省専門職試験にたまたま合格してしまいます。
「さあ外交官になろう!」という志を持っていたわけではなく、本人も「間違って通っちゃったもんだから」と笑い飛ばすほどのことだったそうですが、そこから日本の外交史に名を残すキャリアが始まるわけです。
大阪大学から外務省のトップに上り詰めた初のケースとして、省内でも語り継がれる存在です。
なんか、すごいですよね。「行き当たりばったり」という本人の言葉が謙遜にしか聞こえないのが、また憎いんですよ。
外務省入省から外務事務次官まで
1969年4月に外務省へ入省した藪中さんは、上司の勧めで外務キャリア試験にも合格し、正式にキャリア官僚の道を歩むことになります。
英語研修のためコーネル大学に留学し、1973年に卒業。その後は在韓国・インドネシア・アメリカ大使館などでの在外勤務を経験しながら、着実にキャリアを積み上げていきました。
1998年から在シカゴ総領事を務め、2002年にアジア大洋州局長に就任。北朝鮮問題を担当する六者会合の日本代表として外交の最前線に立ち、2008年1月に外務事務次官に就任。2010年まで2年8カ月にわたって日本外交の要職を担いました。
結婚歴はあるのか?家族の情報を調査
藪中さんの家族についてはほとんど公開情報がなく、これが正直なところです。
プロフィールサイトや講演会の紹介ページ、Wikipedia、そしてニュース記事を丁寧に調べてみましたが、奥さんや子供に関する具体的な情報はいっさい見つかりませんでした。
藪中さんは長年の外交官生活において、家族のプライバシーを徹底的に守ってきた方です。外交の最前線では様々なリスクや情報管理の問題もあるため、こうした姿勢は外交官として当然のことかもしれません。
ただ、藪中さんが主宰する「薮中塾」での勉強会など、プライベートな場では奥様や子供の話題に触れることがあるのかもしれません。あくまで推測ですが、40年以上外務省に勤めた人物が家族なしでキャリアを歩んだとは考えにくく、それなりの家庭を築いていたとみるのが自然でしょう。
娘がいると言われる理由と検索の背景
「藪中三十二 娘」という検索ワードがそれなりの頻度で検索されているのは事実です。
この検索の背景には、2020年5月のサンデーモーニング出演による「炎上騒動」があると見られます。
サンデーモーニングでの発言が注目を集めたきっかけ
藪中さんはTBSの「サンデーモーニング」にコメンテーターとして定期出演しており、2017年11月から月1回ペースで登場しています。
2020年5月17日の放送では、日本国内の新型コロナウイルス感染状況について「日本は不思議な国と見られている。検査もしていないのに死者が抑えられている。これは運が良かっただけじゃないか」という趣旨の発言をしました。
これがネット上で「医療現場の苦労を無視している」として批判を浴び、名前が拡散。「藪中三十二って誰?」「家族はいるの?」「娘は?」という検索が増えたのではないかと推測されます。
ただし、この騒動は藪中さんの発言を正確に理解していない面もあったようで、コメント欄などでは「検査体制の重要性を訴えているのであって、政府対応への批判だ」という擁護の声も多く上がっていました。
「娘」というキーワードで検索が発生しているのは確認できますが、娘の存在を示す具体的な情報は公表されていません。
家族については完全非公開
藪中さんは長年の外務省勤務を通じて、家族のプライバシーを公の場で語ることを一切避けてきました。
外交官というのは国家機密に触れる職業です。本人の安全のみならず家族の安全にも配慮が必要であり、家族情報を公開しないのは非常に合理的な判断といえます。
退官後も講演活動や著書出版・薮中塾の運営などで精力的に活動していますが、家族が登場した記事や記録は確認できていません。
藪中さんの著書『外交交渉四〇年 藪中三十二回顧録』(2021年、ミネルヴァ書房)でも、外交の記録や若者へのメッセージが中心であり、家族については触れられていないとみられます。
娘の有無を含め、家族情報については現状では確認できないというのが正直なところです。
名前「三十二(みとじ)」の由来とは?
藪中さんのもうひとつの謎といえば、「三十二」という珍しい名前ですよね。
初めて見た人の多くが「さんじゅうに?」と読みそうになりますが、正式な読みは「みとじ」です。これだけでも十分個性的なのですが、なぜ「三十二」という数字の名前なのかは長らく謎とされてきました。
本人が公式に名前の由来を語ったという記録は確認されていません。そのため、ネット上ではさまざまな説が飛び交っています。
いくつか紹介すると:
- 誕生日説:生年月日が1月23日で「1」と「23」=「3」と「2」の数字が含まれているという説
- 短歌説:短歌が三十一文字(みそひともじ)+1字余りで32という説
- 山本五十六説:著名な軍人・山本五十六の名前が父親の年齢(56歳)にちなむのと同様に、父が32歳のときに生まれたからという説
- 両親の名前説:コメント欄に「父が四郎(4)で母が八重子(8)、4×8=32」という投稿もある
どれが正しいかは不明ですが、個人的には数字が組み合わさった名前というのはどこかユニークな哲学や願いを込めているのではないかと感じますね。
いずれにしても、「三十二」という名前は一度聞いたら忘れられないほどのインパクトがあります。
名前の由来は本人が公言しておらず、現時点では憶測の域を出ませんが、それだけに多くの人が興味を持つきっかけにもなっています。
世間の声・ネットの反応
藪中さんに対するネット上の声は、大きく3つに分けられます。
1. 外交の実績に対する称賛
六者会合での活躍や日米交渉での奮闘ぶりは、外交・安全保障に関心のある層から高く評価されています。「日本の外交を支えた本物のプロ」「こういう人が教育に携わってくれるのはありがたい」といった声が多く見られます。
2. サンデーモーニング出演への批判
コロナ禍の発言を中心に、「外交官なのになぜ医療の話をするのか」「的外れな発言が多い」という批判的な意見もあります。ただし、これは番組のコメンテーターとしての発言が誇張して伝わった側面も否定できません。
3. 名前への強い関心
「みとじって読むの知らなかった」「なぜ三十二という名前なのか気になる」という声は非常に多く、藪中さんの名前が人々の記憶に残りやすい一因になっています。
全体として、外交実績への敬意と、名前や発言への興味が入り混じった人物として認識されているようです。
藪中三十二の娘を調べる人向けの関連情報
藪中三十二さんについてもっと知りたいという方向けに、経歴や活動についても詳しく紹介していきます。
学歴と入省の経緯
藪中さんの学歴と外務省入省の経緯は、ある意味「偶然が重なった奇跡のキャリア」と言えます。
大阪府立住吉高等学校を卒業した後、大阪大学法学部に進学。大学在学中は英会話サークル(ESS)に所属し、外国人を積極的に探して話しかけに行く「外人ハント」を楽しんでいたといいます。
大学3回生(1968年)のとき、ESS仲間から外務省専門職の試験を教えてもらい、軽い気持ちで受験したところ合格。大阪大学を中退して1969年4月に外務省に入省しました。
入省後、上司の山口洋一さんから「外務キャリア試験も受けてみないか」と勧められ、こちらも合格。翌年には正式な外務キャリア官僚として歩みを始めます。
大阪大学から東京の官庁(特に外務省)に進む先輩がほぼ皆無という環境の中、情報も少ないまま決断した入省でした。
コーネル大学留学での基礎固め
1971年から英語研修のため南イリノイ大学、コーネル大学に留学し、1973年にコーネル大学を卒業。
「コーネル大学での2年間が最も勉強した時期」と本人が振り返るほど充実した学びの場となり、英語を日本語と同じスピードで読めるようになったといいます。この語学力が後の外交交渉で大きな武器となりました。
外交官として歩んだ40年の経歴
藪中さんの外交官人生は、40年以上にわたる波乱に富んだものでした。
最初の海外勤務となった在韓国大使館では、大使館への乱入事件に遭遇し大使のボディーガード役を担うという波乱のスタート。その後インドネシア、アメリカでの勤務を経て、日米経済問題の担当課長として対米交渉の最前線に立ちます。
1990年にはロンドンの国際戦略研究所(IISS)上級研究員を約1年務め、国際的な視野も鍛えました。
1998年から在シカゴ総領事として渡米。小渕恵三首相の訪問時には、シカゴ球場でサミー・ソーサ選手とのキャッチボール始球式をセットするなど、「ロジ(後方支援)のプロ」ぶりも発揮しています。
| 時期 | 役職・出来事 |
|---|---|
| 1973年 | 在韓国大使館二等書記官(大使館乱入事件に遭遇) |
| 1983年 | 在アメリカ大使館一等書記官 |
| 1987〜1990年 | 北米局北米第二課長(日米構造協議担当) |
| 1998〜2002年 | 在シカゴ総領事 |
| 2002〜2005年 | アジア大洋州局長(六者会合日本代表) |
| 2005〜2007年 | 経済担当外務審議官(G8シェルパ) |
| 2007〜2008年 | 政務担当外務審議官 |
| 2008〜2010年 | 外務事務次官 |
40年以上にわたって日本外交の主要ポストを歩み続け、外務省のトップにまで上り詰めた実績は、現在も多くの関係者から高く評価されています。
昭和天皇訪米・皇后陛下との意外な接点
外務省の仕事は「サブ(交渉の中身)」と「ロジ(後方支援)」の二本柱といわれますが、藪中さんは両方に秀でていました。
1975年、昭和天皇と香淳皇后のアメリカご訪問(戦後初)では若手官僚としてロジを担当。「これ以上のロジはない」という経験をしたことで、「あとの仕事はどんなことが来ても怖くない」と語っています。
また、1986年に経済局課長として本省勤務だった時期には、外務省に入ったばかりの研修生として小和田雅子さん(現在の皇后陛下)が配属されており、直属の上司として接していたというエピソードも残っています。
北朝鮮交渉と六者会合の舞台裏
2002年12月にアジア大洋州局長に就任した藪中さんは、日本外交の最大難題のひとつである北朝鮮問題に真正面から取り組みます。
六者会合(日本・北朝鮮・韓国・アメリカ・中国・ロシアによる協議)の「生みの親」ともいわれる藪中さん。その誕生には、こんな舞台裏がありました。
2003年2月、パウエル米国務長官が来日した際、藪中さんは同行のジム・ケリー国務次官補と個人的に接触。「北朝鮮問題には中国の当事者意識が必要で、日米韓に加えて北朝鮮・中国・ロシアも含めた協議の場をつくり、中国に会議をホストさせてはどうか」というアイデアをその場で手書きのメモにまとめて渡したのです。
ケリー次官補はそのメモを北京行きの機中でパウエル長官に見せ、それがベースとなって六者会合の枠組みが誕生したといわれています。
また、拉致問題では2004年に3回訪朝し、小泉純一郎首相の2回目の訪朝にも同行。拉致被害者の帰国実現に奔走しましたが、問題は大きく進展しないまま今日に至っています。
回顧録の中で藪中さんは「外交官人生において最も悔いが残る問題」と述べており、その言葉には深い責任感がにじんでいます。
日米経済摩擦「瞬間湯沸かし器」の交渉術
藪中さんには「瞬間湯沸かし器」という異名があります。外交交渉の場で時として激しく怒りを見せたことから付いたあだ名ですが、これは単なる感情的な反応ではなく、交渉術のひとつでもあったといいます。
1987年から90年にかけて、北米局北米第二課長として日米経済摩擦・日米構造協議・スーパー301条交渉を担当。この時期の逸話はいくつも語り継がれています。
中でも有名なのは、1990年春のエピソードです。ブッシュ大統領(父)から3日後に日米首脳会談の開催が急遽決定し、準備万端で交渉に臨んだ藪中さん。しかし金曜日の夕方になって、アメリカ側の交渉官が「そろそろ帰りたい」と言い出したのです。
「こっちは全部解決するつもりで準備してきたのに何なんだ」と本気で怒り、真っ青になるアメリカ側を尻目に徹夜で交渉を継続。翌日には解決し、ホワイトハウスのNSCから大統領へ「日本はすごく良くやっている」とのコメントが届いたといいます。
また、アメリカの建設市場開放をめぐる交渉では、無礼な態度の相手方に対し「そんな話は通訳しなくてよい」と怒鳴ったこともあったとか。こうした態度が交渉相手に日本の本気度を伝え、最終的に有利な交渉結果につながったのです。
「感性」こそが外交官に最も大切な能力だと藪中さんは語っており、怒りも含めた感情の使い方が交渉の鍵であるという考え方は、今も若者への教えに生きています。
薮中塾の活動と若者育成への思い
退官後の藪中さんが精力的に取り組んでいるのが、「グローバル寺子屋 薮中塾」の運営です。
2013年にスタートしたこの塾は、世界の舞台で論理的に議論できるグローバル人材を育てることを目的としています。合言葉は「speak out with logic(論理を持って発言せよ)」。
毎年20名前後の学生を公募・選考し、1年間、毎月1回土曜日に京都で勉強会を実施。8月には夏合宿、翌年2月には公開イベントを行い、塾生の成果を発表します。
入塾費は無料で、選考基準は「できる奴」より「やれる奴」「賢い奴」より「おもろい奴」というユニークなもの。書類選考・グループディスカッション・個人面接で選ばれます。
勉強会のテーマは社会保障・領土問題・AIなど幅広く、企画も塾生自らが立案します。
薮中塾で育てたい人材像
「英語が話せる=グローバル人材」という認識を藪中さんは強く否定します。
本当のグローバル人材とは、「与えられた場所で自分ならどうするかを主体的に考え、論理を持って世界に発信できる人間」だということです。
自身が外務省で40年培ってきた経験と哲学を、次世代に伝えることへの熱い思いが、薮中塾という形で具現化されているのですね。「体力が続く限り続けていきたい」という言葉からも、その真摯な姿勢が伝わってきます。
現在の活動と著作
2022年に瑞宝重光章を受章した藪中さん。現在は大阪大学特任教授として後進の育成に当たりながら、外務省顧問・立命館大学客員教授として政策提言や国際情勢の解説も行っています。
TBSの「サンデーモーニング」には2017年から月1回ペースでコメンテーターとして出演し、国際情勢の解説を行っています。
著書も多く、最新刊は2024年2月出版の『現実主義の避戦論 戦争を回避する外交の力』(PHP研究所)。ウクライナ侵攻など国際情勢が緊迫する中、外交による戦争回避の視点から論じた注目作です。
| 著書 | 出版年 | 出版社 |
|---|---|---|
| 現実主義の避戦論 | 2024年 | PHP研究所 |
| 外交交渉四〇年 藪中三十二回顧録 | 2021年 | ミネルヴァ書房 |
| 世界基準の交渉術 | 2019年 | 宝島社 |
| 核と戦争のリスク(佐藤優との共著) | 2017年 | 朝日新聞出版 |
| トランプ時代の日米新ルール | 2017年 | PHP研究所 |
| 世界に負けない日本 | 2016年 | PHP研究所 |
| 日本の針路 | 2015年 | 岩波書店 |
| 国家の命運 | 2010年 | 新潮新書 |
| 対米経済交渉 摩擦の実像 | 1991年 | サイマル出版会 |
外務省退官から15年以上経った現在も、旺盛な活動を続ける藪中さんの姿勢はまさに「現役」そのもの。日本外交の生き証人として、今後も存在感を発揮し続けるでしょう。
藪中三十二の娘のまとめ
- 藪中三十二さんは1948年1月23日、大阪府生まれの元外交官・外務事務次官
- 大阪大学法学部を中退し、1969年に外務省に入省
- コーネル大学卒業(1973年)という学歴を持つ
- 北米局課長として日米経済摩擦・日米構造協議を担当した「瞬間湯沸かし器」の異名を持つ交渉のプロ
- 2002〜2005年にアジア大洋州局長として六者会合日本代表を務め、拉致問題・核問題交渉を担当
- 六者会合の枠組み自体を提案した「生みの親」ともいわれている
- 2008年に外務事務次官就任、2010年退官
- 2022年に瑞宝重光章を受章
- 現在は大阪大学特任教授・立命館大学客員教授として活動中
- 「薮中塾グローバル寺子屋」を2013年から主宰し、次世代グローバル人材の育成に力を入れている
- 家族(妻・娘など)の情報は一切公表されておらず、プライバシーを徹底的に守っている
- 「娘」での検索需要は確認できるが、娘の存在を示す公的な情報はない
- 名前「三十二(みとじ)」の由来は本人が公言しておらず、諸説あるが確定情報はない
- TBS「サンデーモーニング」のコメンテーターとしても知られ、2020年のコロナ関連発言で炎上した過去もある
- 最新著書は『現実主義の避戦論』(2024年、PHP研究所)


