沖雅也さんの母親について調べてみると、まず出てくるのが礼子さんという名前です。
ただ、そこから先を知ろうとすると急に情報が薄くなるんですよね。
家計が傾いた時期にバーを経営していた、そしてまもなく家を出た。実はこの一点が、沖雅也さんの人生をまるごと変えてしまったんです。
・沖雅也の母親の名前と、公表されている人物像
・母親がバーを経営し、家を出るまでに何があったのか
・両親の離婚後にきょうだいがどうなり、母親のその後がどこまで分かっているのか
沖雅也の母親・礼子はどんな人だったのか
沖雅也さんの母親については、名前と人柄をめぐるいくつかの証言が残っています。
ここでは公表されている範囲で、母親がどんな人だったのか、そして家族に何が起きたのかを順番に整理していきますね。
母親の名前は礼子で一般人
沖雅也さんの母親について語られるとき、必ず出てくるのが「礼子」という名前です。
複数の芸能まとめメディアが、沖雅也さんの母親の名前を礼子さんとしています。
ただし、ここは最初にはっきりさせておきたいところなんですが、礼子さんは芸能活動をしていた人ではありません。
つまり沖雅也さんの母親は、あくまで一般の女性です。
生年月日、出身地、学歴といった基本的なプロフィールは公表されていません。
沖雅也さんが亡くなったのは1983年ですから、当時の週刊誌やのちの回顧記事で断片的に触れられている情報しか残っていないんですね。
顔写真も公開されていませんし、現在の消息を報じた記事も見当たりません。
一般の方ですから、そこは当然といえば当然です。
沖雅也の出生名は楠城児
母親の話に入る前に、家族の基本情報も押さえておきましょう。
沖雅也さんの出生名は楠城児(くすのき じょうじ)さんです。
1952年6月12日、大分県別府市の生まれ。
のちに養子縁組をして戸籍上の名前は日景城児さんに変わりますが、生まれたときの姓は楠でした。
つまり礼子さんは、結婚後は楠礼子さんとして暮らしていたことになります。
日本人離れした顔立ちの美人と伝わる
礼子さんについて、証言がいちばん多く残っているのが容姿の話です。
複数のメディアが共通して伝えているのは、日本人離れした顔立ちの美人だったということ。
具体的な表現として「オードリー・ヘップバーンやグレース・ケリーのようだった」という比喩が使われている記事もあります。
別の記事では、当時のイタリア映画の女優のように洗練されていた、街を歩くだけで注目を浴びた、とも書かれていますね。
言い回しはそれぞれ違うんですが、方向性はどれも同じです。
つまり周囲が振り返るほど整った顔立ちの女性だった、という点では証言が一致しています。
沖雅也さんといえば、彫りの深い端正な顔立ちで一気にスターダムを駆け上がった俳優です。
その顔立ちの源流が母親にあったのだとしたら、なんだか腑に落ちる話だなと思いませんか。
ただ、ここは注意も必要です。
こうした容姿の描写は、本人や親族が公の場で語ったものではなく、後年のまとめ記事に載っている伝聞に近い情報です。
一次資料として確認できるものではないので、あくまでそう伝わっている、という受け止め方をしておくのが正確かなと思います。
母はバーを経営していたが家を出た
礼子さんについて、容姿の次に語られることが多いのが仕事の話です。
複数の記事が、礼子さんはバーを経営していたと記しています。
ただ、これは家業が順調だった時期の話ではありません。
夫である父親の事業がうまくいかなくなり、家計が傾いていく中で始めた仕事だったと伝えられています。
つまり、生活を支えるための商売だったという文脈で語られているんですね。
そして、ここからが沖雅也さんの人生を大きく変える部分です。
バーを経営していた礼子さんは、まもなく家を出てしまいます。
父親はすでに家を出ていました。
母親も家を離れた。
10代半ばの子どもにとって、両親が相次いで家からいなくなるという状況は、想像するだけで胸が締め付けられます。
なお、店の名前や場所については公表されている情報がありません。
バーを経営していたという記述以上の詳細は、どの記事にも出てこないんです。
一般の方の仕事に関わる話なので、この記事でもそれ以上は踏み込まないでおきますね。
父の事業不振で夫婦仲が悪化した
礼子さんが家を出るまでには、はっきりした流れがあります。
きっかけは父親の事業でした。
沖雅也さんの家は、もともとかなり裕福だったんです。
父方の祖父は久留米で楠病院という大きな病院を経営していた医師で、父親は石油の卸売業を営んでいました。
家に家政婦がいるほどの暮らしぶりだったと伝える記事もあります。
ところが、この家業が傾きます。
事業が思うように軌道に乗らず、一家は大分県日田市から大分市へ、さらに転居を重ねる生活になっていきました。
| 時期の目安 | 家族の状況 |
|---|---|
| 1952年 | 大分県別府市で誕生。父方の祖父は久留米で楠病院を経営 |
| 生後まもなく | 父の仕事の関係で日田市へ転居。父はガソリンスタンドを経営 |
| 小学生時代 | 大分市へ転居。父の事業が不振に |
| 1960年代半ば | 夫婦仲が悪化し、父が家を出る |
| 同時期 | 母・礼子がバーを経営するが、まもなく家を出る |
| 1966年12月 | 両親が離婚 |
| 1968年1月4日 | 中学卒業を前に家出、上京 |
暮らし向きが厳しくなるにつれて、夫婦の関係も冷えていったと複数の記事が伝えています。
そして父親は、新しい女性と暮らすようになり家を出た、とされています。
経済的な行き詰まりが、そのまま家庭の崩壊につながっていったという流れですね。
これは正直、読んでいてきついものがあります。
裕福だった家がじわじわ削られ、最後に家族そのものが解体していくわけですから。
父の学歴には食い違いがある
余談ですが、父親の経歴については情報源によって食い違いがあります。
Wikipediaの記述をもとにした情報では九州帝国大学経済学部出身とされている一方、別のまとめ記事では尋常小学校卒業と書かれています。
真逆といっていい内容なので、この記事ではどちらかを断定することはしません。
一致しているのは、石油の卸売業を営んでいたこと、日田市でガソリンスタンドを経営していたことの2点です。
1966年12月に両親が離婚した
両親の関係は、ついに離婚という形で終わります。
WikipediaやWeblioなど複数のソースが、離婚の時期を1966年12月としています。
このとき沖雅也さんは13歳から14歳。
多感な時期に、家庭が正式になくなったわけです。
なお、離婚時の年齢については15歳のときと記している記事もあり、ここはソースによって割れています。
生年月日が1952年6月12日ですから、1966年12月の時点なら14歳になったばかりの計算になり、記事によって前提がずれている可能性が高いです。
いずれにしても中学生の時期に両親が離婚した、という点は共通しています。
離婚後、沖雅也さんは父親に引き取られたと伝えられていますが、親子の関係は良好ではなかったそうです。
きょうだいもばらばらになった
家庭の解体は、沖雅也さんひとりの問題では終わりませんでした。
沖雅也さんには姉と妹がいて、3人きょうだいの真ん中でした。
両親の離婚にともなって、姉は嫁ぎ、妹は親戚の家に引き取られたと複数の記事が伝えています。
父も母も家におらず、姉も妹もいなくなった。
結果として、沖雅也さんはひとり残される形になったわけです。
……これはさすがに、言葉が出ません。
母親のその後は公表されていない
さて、多くの人が気にするのがここだと思います。
家を出た礼子さんは、その後どうなったのか。
結論からいうと、母親のその後を伝える公表情報は見つかりません。
再婚したのか、どこで暮らしていたのか、沖雅也さんが俳優として成功したあとに交流があったのか。
そうした点に触れている記事は、確認できる範囲では存在しないんです。
沖雅也さんが1983年に亡くなったときの報道でも、母親のコメントは出てきません。
当時大きく取り上げられたのは、遺書と、養父である日景忠男さんの会見でした。
一般の方ですし、40年以上前の話です。
情報が残っていないこと自体は不思議ではないのですが、読者としてはやっぱり気になるところですよね。
なお、ここでひとつ注意しておきたい情報があります。
一部のサイトに、母親が日景忠男さんと再婚し沖雅也さんもその家族の一員になった、という記述があります。
ただ、これは他のほぼすべての情報源と食い違っています。
日景忠男さんは沖雅也さんが上京後に出会った芸能事務所の社長で、1975年に養子縁組をした人物です。
母親の再婚相手ではありません。
母の再婚相手が日景忠男という説は、他のソースと整合しないため採用できない情報です。
沖雅也の母親を調べる人向けの関連情報
ここからは、沖雅也さんの母親を調べている人が一緒に気にすることが多い話題をまとめていきます。
家族の全体像から、あの有名な遺書の話まで、順番に整理していきますね。
父親は石油卸売業を営んでいた
父親については、母親よりも情報が多く残っています。
仕事は石油の卸売業で、大分県日田市ではガソリンスタンドを経営していました。
沖雅也さんが生まれたのは別府市ですが、生後まもなく父の仕事の関係で日田市へ移り住んでいます。
その後、父親が日本石油協同組合の副理事に就任したことで、一家は大分市へ引っ越したとされています。
肩書だけ見ると、地元ではそれなりの立場にあった人だとわかりますね。
家に家政婦がいたという話も、この時期の暮らしぶりを表しているのだと思います。
ただ、前の章で見たとおり、この事業が傾いたことがすべての始まりでした。
なお、実父は1975年に心筋梗塞で亡くなっているとされています。
名前については楠宗生さんと記している資料がありますが、これは1つの情報源にしか見当たらないため、確定情報としては扱いにくいところです。
そして、この実父の死が、後述する養子縁組のタイミングと重なってくるんです。
祖父は久留米の楠病院を経営した医師
家族の話で必ず出てくるのが祖父の存在です。
父方の祖父は、福岡県久留米市で楠病院という大きな病院を経営していた医師でした。
東京帝国大学医学部の出身だったと伝えられています。
沖雅也さんの旧姓である楠は、この一族の姓というわけですね。
一方、父親は医師にはならず、病院を継ぐこともありませんでした。
医師の家系から石油業へ、そして事業の失敗へ。
名家に生まれながら、二代でまったく違う道をたどったのが沖雅也さんの父方の家です。
沖雅也さん自身が1972年の雑誌で語ったとされる内容にも、この祖父の病院の話が出てきます。
自分の出自として、本人の中でもそれなりに大きな意味を持っていたのかもしれません。
兄弟は姉と妹の三人きょうだい
きょうだい構成は、姉・沖雅也さん・妹の3人です。
沖雅也さんは真ん中の長男という位置づけになりますね。
姉についてはしっかり者で家族の精神的な支えだったと書いている記事もありますが、これは一つの記事にしか見当たらない表現です。
姉と妹の氏名・年齢・現在の消息は、いずれも公表されていません。
ふたりとも一般の方ですから、そこは伏せられたままです。
わかっているのは、両親の離婚を機に、姉は嫁ぎ、妹は親戚の家に引き取られたということだけ。
きょうだい3人がそれぞれ別の場所へ散っていったわけです。
中学卒業前に10万円だけで家出した
家族がばらばらになったあと、沖雅也さんが取った行動が家出でした。
日付まではっきり記録が残っています。
1968年1月4日、中学校の卒業を前に、全財産10万円とバッグひとつで上京しました。
まだ15歳です。
上京後は氏名も年齢も偽って働いていたとされています。
ラーメン屋、カステラ工場の配送員など、職を転々とする生活。
そのうちの一つが、バーのバーテンダーでした。
そしてこのバーで働いていたことが、人生を決定づけます。
客として訪れていた古賀誠一さん(のちのオスカープロモーション創業者)にスカウトされ、日活の関係者に紹介されて銀幕デビューを果たすんです。
デビュー作は映画『ある少女の告白 純潔』。
翌1969年にはエランドール新人賞を受賞し、1971年の『さぼてんとマシュマロ』でアイドル俳優としての地位を確立しました。
家庭を失った少年が、家出先のバーで俳優への道をつかんだわけです。
こうして並べてみると、本当に劇的な人生だなと思います。
養父となった日景忠男との養子縁組
沖雅也さんを語るうえで欠かせないのが、日景忠男さんの存在です。
出会いはやはり、沖雅也さんが10代でバーテンダーとして働いていた時期でした。
日景さんはその後、沖雅也さんの俳優活動を支え、芸能事務所JKプランニングを設立します。
そして1975年、実父が亡くなったのちに二人は養子縁組をしました。
これにより、沖雅也さんの戸籍上の名前は日景城児さんになります。
つまり、法律上の父親が日景忠男さんに変わったわけですね。
二人の関係については、後年になって週刊誌やテレビが恋愛関係として描いたことがありました。
これについて日景さん本人は否定しています。
デイリー新潮の記事によれば、日景さんは沖雅也さんを異性愛者だとしたうえで、自分は10代で苦労していた沖雅也さんの才能を信じた恩人にすぎない、という趣旨の説明をしています。
当事者の一方が明確に否定している以上、この記事でも関係性の性質については断定しません。
確かなのは、家族を失った少年に対して、長期にわたって生活と仕事の面倒を見た人物がいた、という事実のほうだと思います。
遺書のおやじは誰を指すのか
沖雅也さんの名前とセットで語られるのが、遺書に記された「おやじ、涅槃で待ってる」という一文です。
この涅槃は仏教用語で、安らぎの境地を指す言葉。
そして問題になるのが、このおやじが誰を指すのかというところです。
ここは情報源によって解釈が割れています。
| 情報源 | おやじの解釈 |
|---|---|
| Weblio掲載の解説 | 実父の楠宗生さんを指す |
| 多数のまとめ記事 | 養父の日景忠男さんを指す |
一般に広まっているのは後者、つまり養父である日景さん宛てだったという受け止め方です。
事務所社長であり戸籍上の父でもあった人ですから、当時の報道でもそちらの文脈で扱われました。
一方で、実父を指しているとする解説も存在します。
つまり、この一文が誰に宛てられたものかは、現在も確定していません。
本人が説明を残していない以上、これはもう答え合わせのしようがない部分です。
母親を探してこの記事にたどり着いた方にとっては、なぜ母ではなく父だったのか、というのも気になるところかもしれませんね。
ただ、そこについても本人の言葉は残っていません。
死因は京王プラザホテルからの転落
最後に、沖雅也さんの最期についても触れておきます。
1983年6月28日の早朝、東京都新宿区西新宿の京王プラザホテル本館最上階から飛び降り、31歳で亡くなりました。
背景には体調の問題があったとされています。
1981年の自動車事故のあとに躁うつ病と診断され、精神的に不安定な状態が続いていたという記述があります。
ただしこれは1つの情報源にしか見当たらない記述なので、経緯の詳細まで断定はできません。
当時の沖雅也さんは、俳優として人気の絶頂にいました。
『太陽にほえろ!』のスコッチ刑事役で爆発的な人気を得て、『俺たちは天使だ!』では主演を務め、必殺シリーズにも出演。
30代に入ったばかりで、これからという時期でした。
だからこそ、あの死は当時の社会に強い衝撃を与えたんですね。
家庭の崩壊から始まり、家出、スカウト、スターダム、そして31歳での死。
母親が家を出たあの日から、沖雅也さんの人生がどこへ向かっていったのかを、こうして並べて見てもらえたらと思います。
沖雅也の母親のまとめ
- 沖雅也の母親の名前は礼子とされる
- 礼子は芸能活動歴のない一般女性である
- 母親の生年月日・出身地・学歴は公表されていない
- 日本人離れした顔立ちの美人だったと複数の記事が伝えている
- 容姿に関する記述はいずれも後年のまとめ記事による伝聞である
- 母親は家計が傾いた時期にバーを経営していたとされる
- 店名や所在地などの詳細は公表されていない
- 父の事業不振をきっかけに夫婦仲が悪化した
- 父が先に家を出て、続いて母も家を離れたとされる
- 両親は1966年12月に離婚したとする記述が複数ある
- 離婚時の年齢は13歳から14歳とする説と15歳とする説がある
- きょうだいは姉と妹で、離婚後に姉は嫁ぎ妹は親戚に引き取られた
- 母親のその後の消息を伝える公表情報は確認できない
- 母が日景忠男と再婚したという説は他ソースと食い違う
- 沖雅也は1968年1月4日に10万円だけを持って上京し、のちにスカウトされた


