桑田佳祐さんの実家といえば、茅ヶ崎という名前が浮かぶ方も多いはず。
でも実家の住所や父親・母親の職業、腹違いの姉・えり子さんとの関係まで知っている方は、意外と少ないんじゃないでしょうか。
実はこの家族のエピソードを知ると、桑田さんの音楽のルーツがくっきり見えてくるんですよね。
・桑田佳祐の実家の場所と、父親・母親の職業や家族の生い立ち
・腹違いの姉・岩本えり子と「いとしのエリー」の関係
・茅ヶ崎への愛着と現在の自宅(目黒の10億円豪邸)まで
桑田佳祐の実家は茅ヶ崎の和洋折衷の家!両親の職業と生い立ち
桑田佳祐さんの実家にまつわる家族のエピソードや両親の職業、そして音楽的なルーツについて詳しく見ていきましょう。
実家は茅ヶ崎市南湖6丁目の立派な一軒家
桑田佳祐さんといえば、神奈川県茅ヶ崎市を強くイメージされる方も多いはず。
実際、桑田さんの実家は茅ヶ崎市南湖6丁目にあったことが知られています。
子どもの頃から茅ヶ崎市内で何度か転居を経験したそうですが、小学校高学年になってからは南湖の家に腰を落ち着けて暮らしていたとのこと。
建物は1階部分がガレージになっており、その上に2階建ての建物が立つ、当時としてはかなり立派な作りだったそうです。
家の中も洒落たリビングとダイニングキッチンが設けられた「和洋折衷の家」で、パーコレーターでコーヒーを淹れ、オープンリール・デッキでグレン・ミラー楽団を聴き、洒落たリヴィングに置かれたテレビで『アイ・ラブ・ルーシー』を見るような、湘南の洒落た生活が日常だったといいます。
ただ、両親も亡くなり、姉も鬼籍に入った現在は、建て壊されてもう存在しないとも言われています。
……なんかちょっと寂しいですね。
でも、桑田さんの音楽の数々がこの家から生まれたと思うと、それだけで十分すぎるほど意味のある場所だったのではないかと思います。
なお、桑田さん自身の本籍は父親の経歴から福岡県北九州市若松区になっているそうで、実家は茅ヶ崎でも本籍が九州というちょっとおもしろい背景があります。
父親・久司は満州引揚者から映画館支配人に
桑田佳祐さんの父親の名前は桑田久司(くわたひさし)さんといいます。
この久司さん、実は非常にドラマチックな人生を歩んできた方なのです。
久司さんはもともと満蒙開拓移民として満州鉄道に勤務していました。戦時中に満州へ渡り、開拓民として働いていたのですが、終戦後に日本へ引き揚げることになります。
帰国後はまず福岡県北九州市若松区に移り住み、それから神奈川県へと居を移しました。
神奈川に来てからはまず湘南の地方新聞の記者として働き、そこから茅ヶ崎の映画館「大黒館」(後に茅ヶ崎国際劇場と改名)の支配人の仕事を得ることになります。
満州の開拓民から地方紙の記者、そして映画館の支配人へと、まさに激動の昭和を生き抜いた人物像が浮かび上がります。
桑田さんの反戦への思いや、社会的なテーマを楽曲に織り込むスタイルは、満州から引き揚げた父親の体験談が少なからず影響しているのではないかと感じさせますね。
波乱万丈な父の職業遍歴と音楽への情熱
映画館支配人の仕事を得た久司さんでしたが、その後の道も一筋縄ではいきませんでした。
映画業界が斜陽化していくなかで、今度は小田原市の西洋料理店「grill KONOMI」の雇われ支配人に転身。
さらにその後は妻・昌子さんとふたりでバーを共同経営するなど、本当に様々な職業を渡り歩いています。
一説によると、映画監督の小津安二郎さんの運転手を務めた時期があるとも言われていますし、パシフィックホテル茅ヶ崎にビリヤードと麻雀の店を出店したこともあったとか。
| 時期 | 職業・活動 |
|---|---|
| 戦時中 | 満州鉄道に勤務(満蒙開拓移民) |
| 帰国後 | 福岡県北九州市若松区に移住 |
| 神奈川転居後 | 湘南の地方新聞の記者 |
| 映画業界時代 | 映画館「大黒館」支配人(後に茅ヶ崎国際劇場と改名) |
| 転職後 | 小田原「grill KONOMI」雇われ支配人 |
| その後 | 妻・昌子とバーを共同経営 |
| その他(諸説) | 小津安二郎の運転手、ホテルに店舗出店など |
音楽面での話をすると、久司さんはとにかくオシャレで新しいもの好きな人だったそうです。
当時としてはまだまだ珍しかったステレオを自宅に置き、グレン・ミラー楽団のスウィング・ジャズやペレス・プラード楽団のマンボなどを、LPレコードでいつも聴いていたといいます。
幼い桑田佳祐さんがその音楽に浸りながら育ったことは、のちのサザンオールスターズの音楽スタイルを考えると、なにか深い意味がある気がしてなりません。
久司さんは2004年3月6日に77歳でこの世を去りました。
母親・昌子はバーや割烹を営む美人実業家
桑田佳祐さんの母親の名前は昌子(まさこ)さんといいます。
この昌子さん、地元でも知られた美人だったそうで、ワンピースがよく似合う、話上手でお洒落な女性だったと伝えられています。
ただ美人というだけでなく、昌子さんはしっかりした実業家でもありました。
夫・久司さんとともにバーを共同経営していたほか、平塚市でも割烹を経営していたとのこと。
とにかく商才のある夫婦で、父方・母方ともにビジネスに長けた家系だったようです(母方の先祖は昭和初期に茅ヶ崎の東海道沿いで「太田屋百貨店」を経営していたという情報もあります)。
経営者として精力的に働いていた昌子さんですが、残念ながら1994年に逝去されています。
2019年3月にNHKで放送された「桑田佳祐大衆音楽史ひとり紅白歌合戦」では、桑田さんが母・昌子さんとの2ショット写真を公開し、ファンの間でも話題になりました。
桑田さんは亡き母への思いを込めた楽曲「JOURNEY(ジャーニー)」を発表しており、お母さんへの深い愛情が伝わってきます。
……これは読んでいてこちらまで温かい気持ちになります。
姉・えり子が子守唄で聴かせたビートルズが音楽のルーツ
桑田佳祐さんには腹違いの姉がいます。
名前は岩本えり子さん(旧姓:桑田)。1952年8月18日生まれで、桑田さんより4歳年上のお姉さんです。
腹違いというのは、えり子さんが桑田さんの父・久司さんと、昌子さんとは別の女性との間に生まれた子供だからです。桑田さん自身もそのことを公言しています。
えり子さんは幼少期の桑田さんにとって、特別な存在でした。
共働きで忙しかった両親に代わって、小学校高学年になると食事の支度など弟の面倒をみていたのはえり子さんだったとのこと。
そして何より、えり子さんは熱烈なビートルズファンだったのです。
12歳の頃にはすでにビートルズにどっぷりはまっており、弟の桑田さんに幼い頃から子守唄代わりにビートルズの曲を歌って聴かせていたそうです。
桑田佳祐さんがビートルズに強く影響を受けたルーツは、この姉・えり子さんにあると言っても過言ではありません。
えり子さんのビートルズ愛は相当なもので、「将来はジョン・レノンと結婚する!」と宣言していたほど。
ジョン・レノンがオノ・ヨーコさんと結婚した際には、茅ヶ崎の隣町・辻堂にあるオノ・ヨーコさんの実家まで桑田さんを引き連れ、抗議運動まで行ったというエピソードが残っています。
……お姉ちゃんのパワーに笑いつつも、なんか微笑ましくなるエピソードですよね。
ビートルズだけでなく、エリック・クラプトンやボブ・ディランなどの洋楽も一緒に聴いていたそうで、桑田佳祐さんの音楽的素養は、こうした環境の中で自然と育まれていったのです。
忙しい両親と姉に育てられた幼少時代の生い立ち
桑田佳祐さんは1956年2月26日、神奈川県茅ヶ崎市で生まれました。
幼少期の桑田さんは、どちらかというと「おとなしい子」だったようです。
一人遊びが多く、小学校では比較的暗い子として過ごしており、音楽の成績は常に「1」ばかりだったとか(今となっては信じられない話ですが)。
共働きで忙しい両親の代わりに面倒をみてくれた姉・えり子さんの存在が、幼少期の桑田さんにとってどれほど大きかったかは想像に難くありません。
ただ、桑田さん本人は後に「えり子はそんなかいがいしい女じゃなかった」「めしなんか作ってもらったことない」「僕は姉の手下でした」と語っていて、姉への複雑な(でもどこか愛情あふれる)感情がにじみ出ています。
中学時代になると野球(ピッチャーとして活躍)やボウリングに熱中。中学3年生の時に初めてギターを手に入れ、ビートルズなどのコピーを始めるようになります。
高校は神奈川の名門・鎌倉学園に進学。ボウリングでアマチュア大会でスコア297を叩き出すほどの腕前にまで達しましたが、結局はボウリングより音楽の道へと進んでいくことになります。
大学は青山学院大学経済学部に現役合格し、大学の軽音楽部・音楽サークル「AFT(青山フォークソング旅立ち)」に所属。そこでサザンオールスターズのメンバーたちと出会い、1978年に「勝手にシンドバッド」でメジャーデビューを果たします。
茅ヶ崎で音楽に囲まれながら育った少年が、日本を代表するミュージシャンへと成長していった軌跡がここに刻まれています。
桑田佳祐の実家を調べる人向けの関連情報
桑田佳祐さんの実家を深掘りすると、姉の存在や茅ヶ崎への想い、そして名曲が生まれた背景など、興味深いエピソードがさらに広がっていきます。
姉・岩本えり子はいとしのエリーのモデル?
桑田佳祐さんの代表曲のひとつである「いとしのエリー」(1979年3月25日リリース)。
この曲の「エリー」が誰を指しているのか、長年ファンの間で語られてきた話題です。
有力な説がいくつかあります。
ひとつは「エリック・クラプトンへのオマージュ説」。エリックの名を縮めて「エリー」にしたというもの。
もうひとつが「姉・えり子説」。桑田さんが渡米する姉に向けて作った曲だという話です。
そして所属事務所の公式発表では「妻・原由子さんに向けた曲と、エリック・クラプトンへの思いが重なり合って完成したもの」とされています。
ところが桑田さん本人はラジオ番組で、「どちらの説も当時のインタビューで適当に語ったもの。真相は”エリー”という言葉の響きの良さから決めただけ」と打ち明けたことがあります。
……どれが本当なのかわからなくなってきますよね(笑)。
ただ、時系列的に面白い点があります。えり子さんが渡米したのは1975年。「いとしのエリー」がリリースされたのは1979年。渡米から4年後という距離感で、当時の姉への思いが心のどこかに引っかかっていた可能性は十分に考えられます。
もちろんこれはあくまで時系列から推測できることであり、桑田さん本人が否定している以上、断定はできません。
ただ、複数の感情や人物への思いが重なり合って名曲が生まれるというのは、音楽ではよくある話。「エリー」は桑田さんのさまざまな愛情が溶け込んだ言葉なのかもしれませんね。
えり子の渡米と帰国後の茅ヶ崎保護活動
えり子さんは1975年に渡米し、モントレー大学で通訳・翻訳を学びました。
卒業後は通訳として活動しながら、一般男性と結婚・出産・子育てを経験。
1996年に日本へ帰国すると、今度は地元・茅ヶ崎の海の景観を守る活動に情熱を注ぎます。「茅ヶ崎・浜景観づくり推進会議(はまけい)」の代表として、高層マンションの建設計画に反対し、中止させることに成功するなど、地域への貢献を惜しみませんでした。
えり子の闘病と2008年の死
1995年に乳がん(進行がん)を患いましたが、治療に専念して克服。その後は帰国してアクティブに活動していました。
しかし2008年初頭に今度は末期の膵臓がんが判明し、2008年10月19日に56歳の若さで亡くなりました。
桑田さんは姉の病気を知ると国内外の名医を探して紹介するなど、全力でサポートし続けたといいます。
読んでいて胸が痛くなりましたが、桑田さんがいかにお姉さんを大切にしていたかが伝わるエピソードです。
茅ヶ崎への深い愛着と生い立ちが生んだ名曲たち
桑田佳祐さんと茅ヶ崎の関係は、単なる出身地という以上の深さがあります。
2013年には茅ヶ崎市民名誉賞を贈られており、茅ヶ崎市民からも特別な存在として愛されています。
2000年に行った「茅ヶ崎ライブ」は、民家が密集するエリアにもかかわらず近所の住民が快諾して実現したもの。その20年後の2020年にも同じ場所でライブを行うなど、茅ヶ崎との「相思相愛」の関係が今も続いています。
2007年に発表した楽曲「MY LITTLE HOME TOWN」は、茅ヶ崎での少年時代の思い出を歌ったナンバーで、ライブのMCでも「茅ヶ崎市で生まれて良かったという実に他愛もない新曲」と紹介したそうです。
あるトークイベントでは、こんな言葉を残しています。
「自分の中だけの原風景があるんです。それが『ふるさと』でね。僕のふるさとは茅ヶ崎なんですよ。そこの沼や池の匂い、そして街の肌触りとか、母のぬくもりがずっと心の中に残り続けていて。」
桑田佳祐の音楽の根っこには、茅ヶ崎の実家と家族、そしてその匂いや記憶が深く刻み込まれているんです。
学生時代、地元のパン屋「清月」に通い詰めていたことも有名なエピソード。そのパン屋では桑田さんのために考案した「サザン佳祐ドッグ」が名物となり、ファンの聖地となっていました。ご主人が亡くなった後も、桑田さんからの励ましの手紙が届き、店主のおばあさんが88歳まで続けたという心温まるエピソードがあります(2022年7月に65年の歴史に幕を閉じました)。
家系図に百貨店経営者!金持ち一家のルーツ
桑田佳祐さんの家系について調べると、商才に長けた一族だということがよくわかります。
父・久司さんは映画館支配人やバー経営など、複数のビジネスを手がけた実業家。母・昌子さんもバーや割烹を経営する女性実業家でした。
さらに母方の先祖をたどると、昭和初期に茅ヶ崎の東海道沿いで「太田屋百貨店」を経営していたという情報もあります(単独情報ではありますが)。
桑田さんのいとこが茅ヶ崎で焼肉店を営んでいたこともあり、一族全体として「商売の血」が受け継がれているようです。
実家の家もかなり立派な造りで、当時としては珍しいステレオを置き、LDKを設けた洗練された空間だったという点からも、それなりに裕福な環境で育ったことが伝わってきます。
ちなみに妻・原由子さんの実家も、横浜の老舗天ぷら店「天吉」を営む商家。サザンオールスターズのふたりはある意味「商売人家系同士」の結婚でもあったのかもしれません。
現在の自宅は目黒の10億円豪邸
茅ヶ崎の実家を巣立った桑田佳祐さんが現在暮らしているのは、東京・目黒です。
より詳しくは目黒区上目黒3丁目あたりに自宅があるとされています。
2009年に約7億円で土地を購入(面積は300坪近く・テニスコート3面分)し、建物を合わせると総額10億円超とも言われる大豪邸です。
地下には音楽スタジオも完備されており、あの数々の名曲はここでも生み出されているのかと思うと、なんとも感慨深いですね。
斜め前には南原清隆さんのご自宅、近くには山下達郎さん・竹内まりやさんご夫妻のご自宅もあるという、芸能人御用達のエリアに構えた豪邸です。
また鎌倉市稲村ヶ崎3丁目にも別荘をお持ちで、2010年に食道がんを患った際はこちらで療養されたそうです。映画「稲村ジェーン」の舞台にもなった場所で、桑田さんにとって思い出深い地域でもあります。
茅ヶ崎の和洋折衷の家から、目黒の10億円豪邸へ。桑田佳祐さんの歩みはそのまま日本のポップミュージックの歴史でもあります。
桑田佳祐の実家のまとめ
- 桑田佳祐の実家は神奈川県茅ヶ崎市南湖6丁目にあった
- 実家は1階ガレージ・2階建ての和洋折衷の立派な一軒家
- 現在の実家は両親・姉が他界後に建て壊され、現存しない
- 本籍は父の出自から福岡県北九州市若松区
- 父親の名前は桑田久司で、満州引揚者から映画館「大黒館」支配人に転身した
- 父・久司は映画館支配人の他にも西洋料理店・バー経営など様々な職業を転々とした実業家
- 父は音楽好きで当時珍しかったステレオでジャズやマンボを聴いていた
- 父・久司は2004年3月6日に77歳で死去
- 母親の名前は昌子で、バーや割烹を経営する美人実業家だった
- 母・昌子は1994年に逝去
- 腹違いの姉・岩本えり子(1952年8月18日生まれ)は幼少期の桑田にビートルズを教えた
- 姉・えり子は1975年に渡米、モントレー大学卒業後通訳として活動
- 姉・えり子は帰国後に茅ヶ崎の海景観保護活動に尽力した
- 姉・えり子は2008年10月19日に膵臓がんで56歳で死去
- 「いとしのエリー」のモデルが姉えり子という説があるが、桑田本人は「エリーの語感から」と語っている
- 母方の先祖に茅ヶ崎の「太田屋百貨店」経営者がいるなど、商売に長けた家系
- 幼少期の桑田は比較的おとなしい子で、音楽の成績は「1」だった
- 2013年に茅ヶ崎市民名誉賞を受賞するほど地元に愛され、地元を愛した
- 現在の自宅は目黒区上目黒3丁目の10億円超の豪邸
- 鎌倉市稲村ヶ崎に別荘も所有し、2010年の食道がん療養時にも利用した


