沢田研二さんと伊藤エミさんが6〜7年間もの間、誰にも知られることなく極秘交際を続けていたのを知っていますか?
昭和の大スター同士のラブストーリーは、渡辺プロでの楽曲提供から始まり、比叡山で2万人のファンを前に行われた伝説の結婚報告、そして18億円の慰謝料を伴う離婚へ——波乱に満ちた昭和のビッグカップルの全貌をまとめました。
伊藤エミさんが亡くなる直前に元夫・沢田研二さん宛に手紙を残していた話、聞いたらきっと胸に来ると思います。
・沢田研二と伊藤エミの馴れ初め(楽曲提供から始まった6年の極秘交際)
・比叡山結婚式のサプライズエピソードと田中裕子不倫・離婚の経緯
・息子・澤田一人の現在と、伊藤エミが遺した手紙の真相
沢田研二と伊藤エミの馴れ初めから結婚式まで
昭和を代表するスーパースター・沢田研二さんと、伝説の双子デュオ「ザ・ピーナッツ」の姉・伊藤エミさん。その馴れ初めや結婚式のエピソードは、今でも多くの人の心に残る昭和のビッグロマンスです。
7歳年上のエミとの出会いのきっかけ
「ジュリー」の愛称で知られる沢田研二さんと、伊藤エミさんの出会いは、同じ芸能プロダクションにいたことがきっかけでした。
2人はともに渡辺プロダクションに所属していました。当時の渡辺プロは日本最大の芸能事務所のひとつで、ザ・ピーナッツも沢田研二さんが所属していたバンド「ザ・タイガース」も同じ事務所で活動していたのです。
注目すべきは、2人の年齢差です。
| 氏名 | 生年月日 | 出会い当時の年齢 |
|---|---|---|
| 沢田研二 | 1948年6月25日 | 約20歳 |
| 伊藤エミ | 1941年4月1日 | 約27歳 |
なんと、伊藤エミさんは沢田研二さんより7歳も年上だったんです。
当時の沢田研二さんはまだ20歳そこそこの若手ミュージシャン。一方の伊藤エミさんはすでに「ザ・ピーナッツ」として日本中にその名を知らしめた大スターでした。どちらかといえば、知名度も経験も伊藤エミさんのほうが圧倒的に上だった時代です。
そんな2人が同じ事務所で顔を合わせるうちに、やがて互いを意識するようになっていったのでしょう。7歳の年齢差を超えた恋の始まりは、同じ渡辺プロダクションという場所でした。
楽曲提供から始まった6年間の極秘交際
2人の恋が本格的に芽生えたとされるのが、1970年から1971年にかけての時期です。
この頃、沢田研二さんはザ・ピーナッツのために楽曲を作曲するようになりました。「東京の女」をはじめとする4枚のレコードに、若き日の沢田さんが作曲した楽曲が収録されています。
音楽というのは、作り手と歌い手の間に独特の絆を生むものです。自分の書いた曲を伊藤エミさんが歌う。その創作上の関わりが、2人の距離を縮めていったと考えられます。
そして2人の交際が始まったとされるのですが、驚くべきはその徹底した秘密主義です。
約6〜7年もの間、2人の交際は一切外部に漏れなかったといいます。当時の芸能界でここまで秘密を守り続けられたのは、それだけ2人が慎重に行動していた証拠でしょう。
世間の人々に伝わっていたのは、後から明かされた「交際期間が6年〜7年」という情報のみ。それ以外の詳細——どこでデートしていたのか、どんなエピソードがあったのか——は、今でもほとんど明かされていません。
なんか、その秘密の恋愛期間にちょっとロマンを感じませんか?
ザ・ピーナッツへの楽曲提供エピソード
1970年〜1971年にリリースされたザ・ピーナッツの楽曲のうち、「東京の女」を含む4枚のシングルの作曲を担当したのが、当時20歳の沢田研二さんでした。
ミュージシャンとしての沢田さんが、当時すでに大スターだったザ・ピーナッツのために曲を書くというのは、それ自体かなり異例の話でもあります。2人のプロフェッショナルとしての信頼関係が、この楽曲提供という形で具体的に結びついた時期でもあったのです。
比叡山結婚式と2万人を感動させたサプライズ
6〜7年の極秘交際を経て、いよいよ2人は結婚の決断をします。
1975年2月18日、ザ・ピーナッツが突然の引退を発表します。引退の理由は「人々に惜しまれるうちに辞めたかった」とのことでした。
そして、さよなら公演が終了した後の1975年5月18日、伊藤エミさんと沢田研二さんの婚約が発表され、約半月後の6月4日に正式に結婚。
これだけでも十分な大ニュースなのですが、2人の結婚式はさらにとんでもない演出で世間を驚かせることになります。
当初は帝国ホテルでの盛大な披露宴を予定していたそうです。しかし、プロデューサーの木村英輝さんが提案したのは、それとはまったく別のプランでした。
「比叡山でファンを呼んでコンサートをしたらいい」
この提案を受けて、1975年7月20日、2人は比叡山延暦寺で結婚式を挙げました。そして式のすぐ後、沢田研二さんが主催する比叡山フリーコンサートのステージに、ウエディングドレス姿の伊藤エミさんと夫婦揃って登場。なんと2万人のファンの前で結婚を報告したのです。
コンサートの途中で沢田さんが「僕の妻です」とエミさんを手引きして紹介した瞬間、会場からは悲鳴と歓声が入り混じった奇声が上がったといいます。白いユリの花束を抱えた伊藤エミさんは、涙を流して感激していたそうです。
比叡山での結婚式とフリーコンサートは、昭和の芸能史に残る最高の結婚報告でした。
内田裕也のファン激励エピソード
このコンサートには、内田裕也さんも出演していたと伝えられています。沢田研二さんへの結婚を知って悲鳴を上げるファンたちに向かって、内田裕也さんが「お前ら、ジュリーを祝ってやれ!」と叱咤したというエピソードが残っています。
当時の熱狂ぶりが目に浮かぶようなエピソードですよね。
なお、このコンサートが伊藤エミさんが一般観衆の前に姿を見せた最後となりました。
結婚生活と息子・澤田一人の誕生
結婚後、伊藤エミさんは芸能界から完全に引退し、沢田研二さんの妻として専業主婦の生活を送りました。
婚姻により本籍は沢田研二さんの実家がある京都府となりましたが(居住は東京都のまま)、2人は東京・世田谷の豪邸で生活を始めます。
そして、結婚から4年後の1979年3月、2人の間に長男・澤田一人(かずと)さんが誕生しました。
一人さんの名前の漢字が「澤田」なのは、沢田研二さんの本名が「澤田邦夫」であることに由来しています。伊藤エミさんは結婚に伴い本名を「澤田日出代」に改め、息子の一人さんも「澤田」を名乗ることになりました。
当時の雑誌には、沢田研二さんが息子の一人さんと入学式に向かう様子が撮影されており、雨の中ではしゃぐ幼い一人さんをジュリーが優しく見守る姿が収められていたといいます。
端から見れば完璧な幸せ家族に見えた2人でしたが、水面下では少しずつ嵐の前兆が生まれていました。
田中裕子との不倫発覚と離婚の経緯
幸せな家庭を築いていた沢田研二さんと伊藤エミさんでしたが、2人の結婚生活に終止符を打つ出来事が訪れます。
きっかけは1982年、映画「男はつらいよ 花も嵐も寅次郎」での女優・田中裕子さんとの共演でした。
田中裕子さんは当時、NHK連続テレビ小説「おしん」に主演して大ブレイク中の人気女優。そのスーパースター同士の接近が話題になるのは自然の流れともいえましたが、やがて2人の関係は共演者の枠を越えていきます。
1983年頃から、沢田研二さんが田中裕子さんのマンションに通う姿が目撃されるようになり、2人の不倫関係が広く知られることになりました。
沢田研二さん本人も不倫の事実を認め、田中裕子さんも「必ず彼と一緒になる」と強気に発言。これによって沢田研二さんへのバッシングは激化し、かつて絶大な人気を誇っていたファンクラブが潰れるほどの人気低迷を招くことになります。
1982年映画共演の詳細
問題の映画「男はつらいよ 花も嵐も寅次郎」は1982年12月に公開されました。沢田研二さんが寅さんシリーズに出演するという話題性もあって大きな注目を集めた作品です。
この映画での田中裕子さんとの出会いが、のちの再婚につながる一大転機となったわけですが、当時の伊藤エミさんにとってはこれ以上ない形で家庭が崩れていく経験だったといえます。
その後、1986年8月、沢田研二さんは妻と一人息子を残して豪邸を出て別居状態となり、1987年1月7日、正式に離婚が成立しました。
18億円の慰謝料と離婚後も澤田姓を貫いた理由
離婚に際して沢田研二さんが伊藤エミさんに支払った慰謝料の額は、当時の芸能界で大きな話題となりました。
慰謝料の総額は18億1,800万円(※別の情報では18億8,000万円とも)とされており、これは当時の芸能人カップルとして最高額と言われています。テニスコートなどを含む資産のほとんどが伊藤エミさんに譲渡されたといいます。
つまり沢田研二さんは、体ひとつで豪邸を出ていったわけです。
そして離婚後、伊藤エミさんは一つの重要な選択をします。それは——旧姓の「伊藤」に戻さず、沢田の本名である「澤田」姓を生涯にわたって名乗り続けることでした。
この選択については、「息子・一人さんのための選択だった」という見方が有力です。離婚しても息子が澤田の名を名乗っているのに、母親だけ別の名字になってしまうのは避けたかった——そう考えるのは自然なことでしょう。
また、別の見方もあります。時系列を考えると、不倫という形で傷つけられながらも離婚を承諾し、さらに元夫の名字を名乗り続けるというのは、単に子供のためだけでは説明しきれない部分もあります。離婚後も「澤田日出代」という名で生涯を過ごした伊藤エミさんの胸の内は、どんなものだったのでしょうか。
離婚後も澤田姓を名乗り続けた伊藤エミさんの選択には、息子への愛情が込められていたと考えられます。
沢田研二と伊藤エミの馴れ初めを調べる人向けの関連情報
沢田研二さんと伊藤エミさんの関係をもう少し深く知るために、伊藤エミさん自身のプロフィールや、その後の出来事についても見ておきましょう。
ザ・ピーナッツとしての伊藤エミのプロフィール
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 本名 | 澤田日出代(旧姓:伊藤) |
| 別名義 | エミちゃん、日出ちゃん |
| 生年月日 | 1941年4月1日 |
| 出身地 | 愛知県知多郡常滑町(現・常滑市) |
| 活動期間 | 1959年2月11日〜1975年4月5日 |
| 配偶者 | 沢田研二(1975年〜1987年) |
伊藤エミさんは1941年、愛知県の常滑で双子の妹・伊藤ユミさんとともに生まれました。
10歳の頃にはNHK名古屋放送局の唱歌隊に参加し、その後は名古屋市内のレストランで「伊藤シスターズ」として歌うようになります。そこを渡辺プロダクションの社長・渡邊晋さんにスカウトされ、1959年2月11日、妹のユミさんとともに「ザ・ピーナッツ」としてデビューしました。
デビュー後はトントン拍子に人気を獲得。歌謡番組「ザ・ヒットパレード」のレギュラーに抜擢され、「恋のバカンス」「恋のフーガ」「情熱の花」「さよならは突然に」など数々のヒット曲を生み出しました。また、怪獣映画「モスラ」では出演もしており、歌手にとどまらない多彩な活躍を見せていました。
なお、ザ・ピーナッツとしてのパート分担は、エミさんがハーモニー担当、妹のユミさんがメロディー担当でした。
ザ・ピーナッツは昭和を代表する双子デュオとして、今でも多くの人に愛されています。
息子・澤田一人のその後と25年ぶりの父子再会
沢田研二さんと伊藤エミさんの息子・澤田一人(かずと)さんは、1979年3月に生まれました。両親が離婚した1987年当時、まだ8歳でした。
離婚後、一人さんは母・伊藤エミさんのもとへ引き取られ、エミさんとその妹・伊藤ユミさんとともに世田谷の豪邸で生活することになります。父・沢田研二さんとは離婚後に会う機会がなくなり、成人した姿を父に見せることもないまま時が流れていきました。
周囲の人々によると、一人さんはそんな状況であっても「親父はすごいんだ」と周りに語り、父を尊敬する気持ちを失わなかったといいます。
そして、2013年1月、ザ・タイガースのコンサートで25年ぶりの父子再会が実現しました。成人した一人さんが楽屋を訪ねてきた時、沢田研二さんは涙ながらに再会を喜んだといいます。
この時、一人さんが沢田研二さんに渡したものがありました。それは、生前の伊藤エミさんが沢田研二さんに宛てて書き残した手紙です。
エミさんが2012年5月にがんの末期であることが判明した際、先が長くないことを悟った彼女が真っ先に思い浮かべたのは、元夫・沢田研二さんのことだったといいます。その手紙の内容は、今も公開されていません。
思わず涙が出そうになるエピソードですよね……。
25年の歳月を越えた父子の再会は、伊藤エミさんが残した手紙がきっかけとなりました。
現在、澤田一人さんは音楽関係の仕事に就いているといわれており、一般人として生活されています。
伊藤エミの死因と遺した手紙に込めた想い
2012年3月頃、伊藤エミさんは腰の痛みを訴えて病院を受診しました。しかし、その診断結果は深刻なものでした——すでに末期のがんが進行していたのです。
告知を受けてからの日々は短く、2012年6月15日、伊藤エミさんはがんのため71歳でこの世を去りました。
死去の事実が公表されたのは、その12日後の6月27日。スポニチや朝日新聞などの大手メディアが一斉に報じました。
伊藤エミさんは芸能界を引退してからは、ほとんど公の場に姿を現すことはありませんでした。しかし、中尾ミエさんとは引退後も亡くなるまで交流が続いていたといいます。また、町内会の役員なども務めており、地域の人々と深く交流していたそうです。不幸で孤独な晩年ではなく、気さくで明るいお人柄だったことが伝わってきます。
先ほど触れた沢田研二さん宛ての手紙は、自分の命が長くないと悟った際に書かれたものです。がんの診断から息を引き取るまでわずか数ヶ月の間に、一通の手紙を元夫のために残しておいた——その想いがどんなものだったのかは、本人にしかわかりません。
ただ、離婚後も澤田姓を名乗り続けたこと、そして最後に元夫宛ての手紙を残したこと。これらをあわせて考えると、伊藤エミさんと沢田研二さんの間には、形は変わっても何か特別な繋がりがずっと続いていたのではないか……そんな想像が膨らんでしまいます。
なお、妹の伊藤ユミさんも2016年に75歳で亡くなっています。
田中裕子との再婚後の沢田研二の変化
伊藤エミさんとの離婚成立後、沢田研二さんは田中裕子さんとの再婚へと進みますが、その道のりは一筋縄ではいきませんでした。
離婚直後に渡辺プロダクションの社長・渡辺晋さんが亡くなったため、喪に服す期間が必要でした。また、不倫騒動によって沢田研二さんの人気は大きく傷つき、ファンクラブが解散するほどのバッシングを受けていました。
それでも、1989年11月12日、沢田研二さんと田中裕子さんは出雲大社で挙式。離婚から2年、2人の出会いから実に8年越しの結婚でした。
当日は約3,000人ものファンが出雲大社に集まり「ジュリー!」と祝福したといいます。
再婚後、沢田研二さんはあるインタビューでこう語っています。「二度と女の人を悲しませたくない」「今度は自分が悲しい思いをすることになるかもしれないという覚悟もした」と。
前の結婚での苦い経験が、沢田研二さん自身を大きく変えたのかもしれません。田中裕子さんとの現在の関係について大きなスキャンダルもなく、今も2人は連れ添っています。
田中裕子さんとの再婚は、沢田研二さんにとって「二度と女の人を悲しませたくない」という誓いを胸に刻んだ新たな出発点となりました。
沢田研二と伊藤エミの馴れ初めのまとめ
- 沢田研二と伊藤エミは、ともに渡辺プロダクションに所属していたことで出会った
- 伊藤エミは沢田研二より7歳年上で、出会い当時は27歳のスターと20歳の若手ミュージシャンだった
- 1970年〜1971年頃、沢田研二がザ・ピーナッツのために楽曲を提供したことで距離が縮まった
- 2人の交際期間は約6〜7年で、その間は一切外部に漏れなかった
- 1975年2月にザ・ピーナッツが引退を発表し、同年5月に婚約、6月4日に正式結婚
- 結婚式は比叡山延暦寺で行われ、直後の比叡山フリーコンサートで2万人のファンに結婚を報告
- このコンサートが一般観衆の前に伊藤エミが姿を見せた最後となった
- 1979年3月、長男・澤田一人が誕生し、世田谷の豪邸で家族3人の生活が始まった
- 1982年、映画「男はつらいよ」での田中裕子との共演をきっかけに不倫が発覚
- 1987年1月7日に正式離婚し、慰謝料は18億円超とされる
- 離婚後も伊藤エミは澤田姓を生涯にわたって名乗り続けた
- 息子・澤田一人は2013年のコンサートで父と25年ぶりに再会し、母から預かった手紙を渡した
- 伊藤エミは2012年6月15日、末期がんのため71歳で死去した
- 沢田研二は1989年11月12日、田中裕子と出雲大社で挙式し再婚した
- 伊藤エミと沢田研二のラブストーリーは、昭和の芸能史に刻まれた伝説のロマンスとして語り継がれている


